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管理者プロフィール

はじめまして、なおです!

Webサイトにお越しいただき、ありがとうございます。

私は、田舎でパート保育士をしている二児の母です。

どこにでもいるごくごく平凡な私ですが
今、人生の大きな転換期を迎えています。

あることがきっかけで
Webマーケティングをお仕事にしようと決意したのです。

目標は、1年後に月収20万円、2年後に月収40万円を達成すること。

この目標は、ただ漠然と思い描いた理想ではありません。

  • 実際にスキル0からこの目標を達成しているロールモデルがいる
  • 努力次第で実現可能だと確信した

このような理由から設定したものです。

では、なぜ地方暮らしの平凡なパート保育士が
Webマーケティングの世界に飛び込もうと思ったのか

そのきっかけを含めて、自己紹介をしたいと思います。

【私(なお)について】
・保育士(パート)、インスタ運用代行
・広島出身山口在住
・夫と2人の息子(小学生)の4人家族
・趣味はキャンプ、ゲーム、読書

幼少期〜中学校時代:劣等感と反抗


私は広島県で生まれ、父・母・年子の妹・5歳下の弟と
山に囲まれた自然豊かな戸建て住宅地で暮らしていました。

父は地元の中小企業で忙しく働きながら家族を支えてくれ
母は飲食店でパートをしながら家事を完璧にこなしていました。

幼少期の私は、天真爛漫、明るく元気な女の子だった「そう」です。

でも、記憶に残っているのは
出来の良い年子の妹に劣等感を持ちながら
いつ父親の機嫌が悪くなるかとビクビクする日々。

妹は成績優秀、明るい性格で友達も多く
私にないものをたくさん持っているように感じていました。
(あとから聞くと、妹は妹で、私と比べられることに悩んでいたようです)

父親に話しかけると
「結局何が言いたいんや!(広島弁)」
とよく怒られていました。

結論から話すことを強いられる小学生。
今考えると酷ですね(笑)

母親のことはいつも尊敬の眼差しで見ていたように思います。

母の子育ての軸となっていたのは
自分がいついなくなっても生きていけるように育てること。
子どもたちには、幼い頃から「自分で選択させる」ように心がけていたそうです。

そんな方針を持って子育てをしていたからか、
頑固で要領の悪い長女の私にイライラを隠せていませんでした。

妹と二人して
「なんでそれができんのん!(広島弁)」
と罵っていたこと(そんなつもりはなくても)、私は忘れません!

家の外ではどうだったかというと、とにかくいい子でいなければ、と
自分を演じていたように思います。

そのいい子ちゃんが祟って、小学校では
正論を振りかざしたことでいじめに遭ってしまいます。

家では劣等感に苛まれ、外では自分を押し殺し隠れて過ごす。

そんな生活を送る中で、天真爛漫だった女の子は
内気で人の目を気にする女の子に変わってしまったのだと
今となっては思っています。

中学校ではバレーボール部に入部するも
レギュラーメンバーは小学校からチームに所属していた経験者ばかり。

私はベンチにもギリギリ入れるか入れないか程度のところにいながらも
バレーボールが大好きになり、朝7時前から体育館に行きひたすら練習していました。

一方で、悪い仲間ともつるみ始め、不良のマネごとをするように。

母親に「育て方を間違えた、私のせい」と言われ、泣きながら改心します。

頑固で要領の悪い自分と、それをあからさまに指摘する家族。
私は自信をなくしていきました。
それに反発するように、中学校では少し道を逸れてしまいます。

高校時代:アメリカへ

中学校では、悪さをしながらも、根は真面目なためコツコツ勉強し
手堅いランクの公立高校へ進学。

高校で部活を選ぶ際に最初に見学したのは、もちろんバレーボール部。

ところが、そのバレー部というのが、全青春を注がなければならないほどの
ガチ部活であることを知り、思わず尻込み…。

第2希望の吹奏楽部に入部することに。
(この選択がのちのち功を奏します!)

小2から6年間ピアノを習っていたこともあり、音楽は得意分野。
中学校のバレー部時代とは打って変わって
自信を持って取り組めるようになっていました。

中学校で思いっきり反抗し切ったことで弾みがついたのか
高校生活では内気なキャラはどこかへ消え
友達に囲まれ、大好きな人もでき、最高に楽しい毎日を過ごします。

そんな中、青天の霹靂のように降ってきたのが
父親のアメリカ転勤の話でした。

ついていくか、ひとり日本に残るか選ぶように言われ…。
(これも母の「自分で選択させる」という方針によるもの。)

青春真っ盛りだったその頃、友達や好きな人と離れて異国の地へ…という選択は
当時にしてみると相当な覚悟が必要でした。

しばらくの間悩みながらも
「行かないと後悔する」
と、心の奥底ではとっくに決断していたのだと思います。

(幼い頃から「自分で選ぶ」という経験をしてきたからこそ
この選択ができたのだ思います!母に感謝!!)

そんなわけで、通っていた高校は中退し
涙の別れを経て、アメリカへと飛び立ちました。

そして、インディアナ州という田舎のハイスクールに編入。

いざ入学してみると、日本で得意だった英語は何の役にも立たず。
先生の言っていることがわからない。当然友達もできない。
また内気な私が顔を出しそうになります。

しかしここでも「自分で決めて行動する力」が発揮されたのでしょう。
思い切った挑戦を始めたんです。

音楽を続けたい気持ちが強かった私は、オーケストラ部の扉を叩きます。
(アメリカには、吹奏楽部だけでなく、オーケストラやマーチングバンド、コーラスなど
日本にはない専門的な部活がたくさんありました!)

私が吹いていたのは「オーボエ」という楽器。

当時オーケストラの中にオーボエを担当している人がいなかったので
大歓迎の雰囲気の中、迎え入れてもらい…

英語はわからなくても、音楽は世界共通だと実感した瞬間でした!

オーケストラに入ったことで、メンバーでカナダへ演奏旅行に行ったり
本格的なミュージカルのメンバーとして演奏したり
日本ではできないスケールの大きな経験を積み上げていきます。

そのおかげで英語も徐々に話せるようになり、日本に続いてアメリカでも
充実した高校生活を送れたことは、さらなる自信につながりました。

自分で自分の道を選択し、挑戦し続けることで
「充実した高校生活を送ることができた」というのは
初めての大きな成功体験だったように思います。

大学時代:キラキラ期

アメリカのハイスクールを卒業した後の進路は、ほとんど迷いませんでした。

アメリカに残ることは考えていませんでしたし
ゆかりのない土地へ行く理由もなく…

海外の高校に2年以上在すると「帰国子女枠」で大学受験ができた※ので
少し背伸びして地元の国立大学を受験。
※当時の情報です

受験科目は小論文と面接。
(学力レベル的にはきっと足りていないであろう)大学に難なく合格し
誇らしい気持ちで大学生活をスタートするのでした。

大学生活は、ひと言で言うと「最高!」

一人暮らし、バレーボールサークル、仲間、旅行…
こんなに楽しくていいの!?という4年間でした。

学力が足りていないことが不安でしたが
それも努力でカバーできることを知りました。

努力に加えて、「できる」仲間に囲まれて過ごすうちに
いつの間にか自分が引き上げられたという感覚も。

今考えても、人生で最高の時間を過ごしたと言えます!

ちょっと背伸びした環境に飛び込むことで
人生を変えるほどの出会いと経験が得られると知りました。

就職:暗黒期

就職活動は、正直言ってうまくいきませんでした。

憧れの職種にエントリーするも、面接すら受けさせてもらえない。
何がいけないのかもわからない。

せっかく実力以上の大学に入れたんだから、それ相応の会社で働きたい!

そんな漠然とした目標に向かってモヤの中を進んでいました。

大企業にことごとく相手にされず焦った私は、地元企業にシフトチェンジ。
それなりに手応えを感じ始めたとき、地元銀行の内定をいただきました。

周りからも
真面目で責任感が強い性格だから、向いてるよ!
とお墨付き。

私の祖父も同じ銀行で働いていたこともあり、半ば運命的なものを感じながら
入行式を迎えるのでした。

部活のような厳しい研修期間を経て私が配属されたのは
思い描いていたような支店の窓口係ではなく、本部の企画部署

精鋭がそろう最前線の部署になぜ私が配属されたのか
今も不思議で仕方ありません。

仕事内容は多岐に渡りました。

・サービス企画・推進
・IT戦略
・広告企画
・電話応対
・在庫管理
・セミナー講師 など

ここで、直属の上司にビシバシ鍛えられ、論理的思考を叩き込まれました。
(冒頭で触れた父親の言葉、「結局何が言いたいんや!」の再来です。笑)

少し慣れてくると、自分なりに仕事に想いを持つようになり
果敢にも上司にたて突いたりもしていました。

仕事にはやりがいを感じ始めていた一方で
悩みが深かったのは別の上司について。

要は、コンプライアンスに引っかかるような待遇を受けていたんです。
出張などでその上司と2人になることも多く、怖くて仕方なかったです。

逆らうと評価に関わるのではないか。
仕事がうまく回らなくなるかもしれない。

そんな恐怖から、当時は甘んじて受けるしかありませんでした。

嫌悪感は増していく一方。

そんな中、業務上でもトラブルが多発するようになり
帰宅すると日付が変わっていることも。

5年弱頑張りましたが
いつしか、限界に達していたのでしょう。

通勤するバスの中で、意図せず涙が流れるほどになっていました。

もう、逃げよう。

そのとき付き合っていた現在の夫と結婚するタイミングで
退職することを決めました。
(退職も一筋縄ではいかなかったのですが)

晴れ晴れしているはずなのにちょっとモヤモヤする。
そんななんとも言えない心境になったのをよく覚えています。

仕事に充実感を持ち始めた矢先に、キャリアを諦めるという結果に。
諦めたというより、逃げたという感覚に近かったです。

専業主婦〜育児〜転勤:最高に幸せで大変

銀行を退職した後は、数ヶ月間自由を満喫しました。

少なからず憧れがあった専業主婦。
節約しながら凝った料理に挑戦し、お菓子作りも楽しんで…

絵に描いたような専業主婦生活を送りながらぼんやりと考えていたのは
「本当にこれでよかったのかな?」
ということ。

それに加えて、バリバリ働いている友人からの
「専業主婦って毎日何してるの?」
という言葉もグサリと刺さります。

退職したことは後悔していないけれど、いつかはまた働きたい
漠然と考えていました。

そうこうしているうちに第一子を妊娠
モヤモヤした気持ちに、一旦フタをしたような状態に。

出産後は、とにかく育児に奮闘しました。

初めての育児は手探り状態。
私がちゃんと育てなきゃ!
と毎日がいっぱいいっぱいでした。

二人目が生まれる頃には上の子は絶賛イヤイヤ期。
その頃夫も仕事が忙しくなったこともあり、ワンオペ育児
記憶がないほど目まぐるしい日々。

毎日ベビーカーを押しながらいろんな公園をはしごして
雨の日にはスマホで屋内の遊び場を調べては車を走らせ…

子どもたちの昼寝のすきを見て夕飯の準備をし
夜は2人を同時にお風呂に入れるために自分は裸で駆けずり回っていました。

子どもたちを寝かしつけながら「やっと自分の時間!」とワクワクしていると
寝落ちしていつの間にか明け方…絶望。

そんな日々でした。

そして、追い討ちをかけるようにやってきたのが夫の転勤。

大好きな地元を離れ、隣の県とはいえ小さな子を連れて
見知らぬ土地に行くのはとても不安でした。

加えて、これが上の子の幼稚園入園のタイミング。

ただでさえ、ワンオペ育児の合間にひとりで引越しの準備をしなければならない中
2時間近く車を走らせて幼稚園の見学に行ったり
引越し先の付近の公園でママさんたちから情報収集したり…

母親って、子どものためならものすごい行動力を発揮できますよね!

そんなこんなで無事幼稚園も決まり、あっという間に新生活が始まるのでした。

新しい土地での生活は、素晴らしいものでした!
(不安に思う必要なんて全くなかった!)

自然に囲まれて、子どもたちはのびのび遊べるし
子育ての悩みを打ち明け合える素敵なママ友にも恵まれて…

そしてついに下の子が幼稚園に入園!

約5年間、育児だけに専念してきた私だったので
ここで一旦、子育ての第一章が完結したような、そんな気持ちでした。

子どもたちは最高に可愛い。でも育児は最高に大変。
記憶がないくらい目まぐるしい毎日を過ごして
やっと一息つけたのがこの頃です。

保育士になる:天職と行き詰まり

子どもたちが幼稚園に行っている間、自由な時間ができた私は
早く働きたい!
という気持ちでいっぱい。

保育園ではなく幼稚園に通わせていたので、何の疑いもなく
正社員ではなくパートで働ける先を探していました。

そんなときに、たまたまお声がかかります。

とある保育園で「保育補助」の仕事ができる人を探している、と。

実は、進路として保育の道も考えていたことがあったので
願ってもいないチャンスだと思い、すぐに働き始めました。

保育補助とは、保育士のサポート役のような仕事で、私の場合は主に
掃除や着替えの準備、園庭の整備などの業務をしていました。

その仕事にもやりがいを感じていたのですが
資格を持っていなかったことで業務範囲に限界があり
保育士の資格を取ろう!
と決意。

・本屋でテキストを購入し試験勉強
・電子ピアノを購入し実技試験の練習

そして試験を受け、約1年後に無事合格

資格を取得すると、さっそく担任という大役を担うことに。
(単に保育士不足の穴埋めとして、ですが)

任されたのは、乳児クラスの担当。

赤ちゃんはなんて可愛いんだろう。
すくすく育つようサポートをしたい。
保護者の方の役に立ちたい。

そんな気持ちで、誇りを持って働いていました。
働くことが楽しくて仕方がなく、これは天職だ!と思いました。

その反面、辛いことも。

それは、勤務時間内に仕事が終わらず
家に帰っても仕事をしなければならなかったこと。

担任とは言っても、時給制のパート職員の身。

休日、公園で子どもたちを見守りながら仕事をしている。
そんな状況に、どうしても納得できませんでした。

もうひとつ辛かったのは
子どもが体調不良で仕事を休まないといけないとき。

担任という立場になっていたので、自分が休んだら必ず誰かに迷惑がかかる。

職場に休みの連絡を入れるときのあの申し訳ない気持ち。
子どもの辛さより仕事の心配をしている自分が本当に嫌でした。

そんな流れから、ひと区切りがつく3月末に
「もう担任はできません」
と園長に伝えます。

それからは担当を変えていただき、時間内できっちり終わる仕事に。

そのスタイルが自分には合っていると信じて疑いませんでした。

パートなんだから、決められた時間内で働きたい。
家庭に仕事を持ち込みたくない。子どもに影響があってはならない。
この頃はそんな思いが強かったです。

Webでのお仕事を開始:もう一度キャリアアップを!

Webの仕事に興味をもったのはふとしたことからでした。

小学生へと成長した子どもたちが、とあるご当地YouTuberにハマり
そこ遊びに行きたい!と言い始めたんですが…

「それなら旅行に行こう!」と調べてびっくり!!
早期割引などを利用しても交通費だけで往復15万円近くかかる!?

現状ではちょっと無理…
でも子どもたちの願いを叶えてあげたい!

ということで、収入を上げるため、副業を探し始めました

実はこのことは小さなきっかけにすぎず
どこかでずっと「もっと働きたい!」という気持ちがあったのが正直なところ。

この旅行計画によって、私の中で眠っていたキャリアアップへの想い
激しく燃え始めるのでした。

この時に初めて、私だってまだまだやれたはずなのに…という気持ちに
フタをしていたことに気付いたんです。

先ほどお話ししたように、また仕事をしたい!と探し始めたときに
たまたま出会ったのが保育士の仕事。

自由に動ける時間が少ないことや転勤族であることから
必然的にパートという働き方を選びました。

いつしかそんな状況にも慣れて「これでいいんだ」「こんなもんだろう」と
思い込んでいたところがあると思います。

旅行のための収入アップを望んだ時、当然、保育士としてのキャリアアップも考えました
でも、その未来を想像して、理想の働き方になっているかというと
決してそうではありませんでした。

  • 収入が上がらないのに仕事量は増えている
  • 家を空ける時間が増え、子どもたちに寂しい思いをさせている

そんな未来しか見えませんでした。

そんな経緯があり、保育士とは別の道で収入を得ようと考えたのです。

いろいろと調べているうちに「リモラボ」というオンラインスクールに出会いました。
そこにはたくさんのロールモデルが。

地方住みの転勤族でも在宅ワークで会社員の収入超え!

そんなキャッチコピーに、「私でもできるかも!」と心が躍りました。

この働き方ならば

  • キャリアアップ
  • 収入アップ
  • 子どもと過ごす時間

すべての面において、私の理想が叶えれるのでは、と。

さらに私には
新卒で入った会社で、やりがいを感じ始めた矢先に
キャリアを諦めざるを得なかった。
という過去があります。

天井なくキャリアアップしていける環境。
過去のモヤモヤもきっと払拭できる!
そう考えました。

そんなこんなでリモラボでスキルを身につけた現在は
パートで保育士をしながら副業でInstagramの運用代行をしています。

運用代行を続ける中で実感したのは、Webマーケティングの重要性。

Webマーケティングとは?
インターネットを使って、お客さんに商品やサービスを知ってもらい、買ってもらう仕組みづくりをすること

マーケティングの知識があれば、運用代行としてのレベルも上がるし
どうせやるならもっと高みを目指したい!

そう思っていたところに、リモラボの中で
Webマーケティングコースの受講案内があり、飛びついた結果
今、こうしてブログを書いています。

ふとしたことが、自分のキャリアについて考えるきっかけになり
新たな挑戦を始めました。目標に向かってコツコツ学びと実践を繰り返し
小さな手応えを感じ始めたところです。

最後に

最初にもお話ししましたが、私の目標は
1年後に月収20万円、2年後に月収40万円を達成することです。

  • 地方住みの平凡なパート主婦でもWebの仕事でキャリアアップできるのか。
  • 正社員になれなくても、会社員並みの収入を得ることができるのか。
  • 子どものやりたいことを躊躇なくやらせてあげられるようになるのか。

その答えをこのブログで発信していきます。

「地方住み、転勤族で正社員の仕事を探すのが難しい」
「結婚や育児で諦めたキャリアにもう一度挑戦したい」
「子どもたちの幸せのために収入を上げたい」

そう思った方が、このブログを参考にして迷うことなく進めるように
私の挑戦の過程をしっかりと書き残していこうと思います。

あなたの少し先を行く私の現在地を、定期的にチェックしに来てくださいね。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。